昭和49年10月26日 朝の御理解



 御理解 第84節
 「おごりがましい事をすな。ものは細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やす様な事をすな。」

 おごりがましいことを砂。是は愈々末広がりに繁盛をしていくためには、絶対此処の所を身に付けなければいけないと思うです。おごりがましい事をすな。それは神様が、例えば一つの着物なら着物でも、食べ物でもね。様々な美味しいもの美しいもの、言うなら高価なものというのがあります。神様が作っておって下さるんですから、それを食べたから着たからと云う事が、おごりがましいと云う事ではない。
 それが食べられる様な、それが着れれる様なね。おかげを頂くこそ、神様の願いでもあるし神様もまた喜んで下さる事ですし、私共もおかげを受ける事なのです。けれどもです、まぁ着る資格なしとか、食べる資格なしと云う事ではなくてもです。分に、何時も応じておらなければいけないと云う事です。分不相応な事をしたりしたんではね。是はもう踏み広げて通る様な、愈々繁盛のおかげを頂く為には、どうでも是をですね、身に付けなければ駄目ですね。
 まぁ少し楽になりますと、言うならば良い物ばかりが身に付いたり、美味しい物ばかりが食べたくなったりする様なね。そういう根性ではいけない、けれどもそれはね、それが頂けれる様にね。分に応じたあれこれをじっと眺めて見て、思うて見てですね。まぁ一番素晴らしい事は、私の生き方です。自分で物を求めないのですから。自分で買わないのですからね。ですから自然とほんなら始めの間は、私共夫婦布一寸買わないと云う建て前で、おかげを頂いております。
 もう此処二十七八年は、終戦この方ですから、本当に布一寸買わないという生き方を身に付けさせて頂いておるね。始めの間はそれこそあの、あの軍服のねお下がりの様なのを着て、御取次ぎさせて頂いとった時代もあった。新しいものではありましたけれども、始めて私が、着物のお供えを頂きましたのは銘仙でした。それがあのご主人の、亡くなられてからまだ袖を通しておらないというのがあるから、先生が着て頂くならばと言うて、持って来て頂いた。
 それが私のまぁこちらへ帰ってからは、初めての言わば衣料でした。言うならば古物が集まり、言うなら木綿ものが集まり、銘仙物が集まりね。言うならば段々おかげを頂いて、金紗紬と云った様な最高の物が、段々集まって来る様になった。私共は日々言うなら普段着に、まぁこういう風にまぁ黒衣ですけれども、が着れれる様に段々なってきた。家内もやっぱりそうですね。
 ですからこの生き方は、もう本当に一番素晴らしい事だね。もう自然がそのこちらの、言うならまぁ分かりやすく言うと、位が上がって行くにしたがってそのくらいに応じた、ほんなら着物なり食べ物なりをあたえて下さるのですから。これはもう一番間違いのない生き方なんですけれども、皆さんの場合はそういう訳には行きませんね。ですから先ずほんなら、自分の収入なら収入、給料なら給料と言った様なところからね、割り出していかなければならない。
 そこでなら着物一枚作らせて頂くでも、皆さんの場合は御神意を頂いてからと言う様な事にまでなって来る訳であります。是はねもう絶対に、末広がりに、繁盛に繁盛のおかげを頂く為にはね。此処ん所は絶対身に付けなければいけんです。もうちょこっとばっかりあの地位が着くともう大臣になったごたる気持ちになる。少しばっかり預金が出来るともう百万長者になったごたる気持ちになるね。是ではね一番初めおごりがましい事をすなと仰る。私はよう思う事があります。もう借金を一杯持っとる人がです。
 まぁ言うならそら親先生、お金に困ります困りますと言うけれども。子供やら孫やら連れて来ると、もうそれこそあの家辺りの、まぁ家辺りのというと失礼ですけれどもね。例えば子供達よりも孫達よりも、立派ななりで来る人があります。そん時何か淋しいですね。その家の孫に思う様な物を買うてやられんから、淋しいんじゃないですよ。あげん難儀して困っておってから、御取次ぎ頂いてお願いしよってから、子供だけにゃ贅沢させにゃと言うとこじゃろかという様な気がする時があります。
 親も子も、一様に育っていかにゃいけませんですね。ええですか是はもう末広がり、愈々繁盛のおかげを広がりに広がって行くおかげを頂いて行く為のです。こりゃもう一つの原則ですね。と言うてほんならその、良いものを身に付けちゃならんとか。贅沢なものを食べちゃならんとか。それはね食べさせたい為に、着せたい為に神様がお恵み下さり、作ってあるのですからね。だからそれが頂けれる様な、私はおかげを頂かなければならないと言う事であります。
 これがもう根本ですけど皆さん心に命じてね、此処ん所の域を脱しておればです。言うなら何時も申します様に、一万円の給料を取りよってですよね。一万千円の生活をするならそらもう大贅沢ですね。もうこう云う考え方はもう絶対おかげにならん。言わば末広がりの繁盛のおかげにはならんです。今日は皆さんにね。もう愈々繁盛に繁盛のおかげを頂いて、愈々踏み広げておかげを頂いて行くという為のお話を聞いて頂いておる訳です。次にねおごりがましい事をすな、細うても長う続かねば繁盛でない。
 細うても長う続くと云う事。おかげを頂かなければならん時には、もう一生懸命に神様にお縋りをする。少し楽になると、信心がすぐ緩んで来る。私は油断をしてはならないと云う事だと思うですね。細うても長う続く油断をしてはならない。次第に踏み広げて通るのは繁盛じゃと。本当の繁盛と言うのは、言わばどう云う事かと言うと。次第に踏み広げて通ると云う事。次第に踏み広げて通ると云う事は、どう云う事かと言うと。私は努力と思う。何時も努力をする、何時も努力をする人ね。
 道に草を生やすような事をすなと云う事は、マンネリになってはならないと云う事だと思う。今日はこの八十四節を、今まで頂いた事のない角度から頂いているんです。一番初めに申しました様に、お互いが今日よりも明日、今年よりも来年と、いや親の代より子の代と云う様に愈々広がって行く事の為にはです。此処ん所を守り、それが一つの家の家風になり、それが性根の中に染み込んで来る様なおかげを頂かなければならない事を聞いて頂いているんですから。どうぞその積りで頂いて下さいね。
 ようやく踏み広げたけれども、踏み広げたけれども、そこには言わばその道に草を生やす様な事をしてはならないね。例えばそう云う事では、おかげを落とすぞと云う様な場合であってもね。それを本人が気が付かないと云う事です。道に例えば草を生やすと云う事は、道を汚すと云う事でもあります。ですからそげな、ほんなら金が出来たけん、物が出来たから自由が着くこつなったからと言うて、そげな事しよったんじゃ人道に外れる。それでも気が付かない。マンネリになっておるからです。
 そう云うところを、あの心掛けて行かなきゃならない。言わば道に外れると云う事は。そう云う様な私は生き方をです、いよいよ身に付けて頂きたい。今朝方、私お夢を頂いて久し振りであの、椛目の様子を頂いたんです。もう私は夜中に散歩をしてるんです。あのバス通りをこう通って、そしてあの内田さん所の裏へ通って、そしてこうあの旧道を参る。そすとまたあの教会の前に出るですね。ぐりっと一周してます、あそこは道が。あの道を私がこう回っておる。
 それが私は夜中真っ暗ですから夜中です。そして内田さんところの裏まで来ましたら、もう百燭光が幾つも点いておって、何事かありよるじゃろうかと思うて、裏からこう覗いたら、あの内田さんがなんか、アイロンか何かかけておられる。夜なべをしておられる様である。あんくらいな事をするとにあげん電気点けんでん良かろう所えと、こう思いながら通った。それから又小さい小川がある。
 小川を越えますと広島さんという、今はどうか知りませんけれども、その時分牛乳をしよられました。そしたら十燭光ぐらいの電気を点けておって、家族の方がもう朝食をなさっておられる所であった。私はもう夜中と思いよったら、もうやっぱ、二時半か三時ぐらいの時間だったんでしょう。牛乳屋さんですから朝が早いから、もう家族で十燭光の下でご飯をこう食べておられると云う所であった。あぁもう朝方になると言うて、こう一周しながら又教会に、元のお広前に帰って来た所を頂いて。
 どう云う事だろうかと思うて、私はあの分からなかったけれども。今日のこの御理解を頂きながら、何かはっきりして来た様な気がする。私共のこの合楽の、まぁ一つのそういう傾向と言いますかね。そういう傾向があると云う所がありますが。例えば点けないで良か所に、電気をパチパチ点けたりね。又はあの朝の仕事よりも夜のほうなら、何時まで起きとったっちゃ障らんばってん、朝起きが出来んと言った様な感じの雰囲気が、合楽にはある様に思います。私共も昔はそうでしたからね。
 もう夜は何時まで起きとったっちゃその楽しい。けども朝早起きは出来ないね。私はとにかく、本当の言うならば繁盛のおかげを、愈々繁盛のおかげを頂く人はです。もう朝早起きがねもう当たり前の事として、平気で出来れる稽古をしなければ、本当の繁盛には繋がらないですよね。もう私は子供達の申しますけれども、朝の一時間は昼の三時間以上にも匹敵すると、私は申します。
 それからほんなら夜なべをしながらです、内田さんところの場合、夜なべをしながらもう朝方までも夜なべをしておる。しかも明々と電気を点けて昼見らずに。昼したら電気も例えば要らない。これは私の周囲におる人が特に朝なんかは、あの小さい電気が一つ点いてます。けども私が起きて奉仕着を着けたりしますから、あの私の部屋の明るい方を点けます。点けますと私はもう必ず、こちらの小さい豆電球を消します。ほんなもうちょっと十五分ばっかりの間です。
 もう赤々と点けて片一方の小まかつを消したけん、どうと云うこっじゃないけれどもですね。もう是はもし朝の奉仕をして下さる方達ならば、何時も気が疲れるだろうと思う。御手洗いに行く時に、私の洗面所と御手洗いがつながってます。それを一緒にぱっと電気を点けても良い様だけれども、私は便所に行ったら便所のだけ。そしてすぐ洗面しますから、洗面する時にまた点けると云う様にですね。もうちょっとの間でもね私はあの、言うならば、心を心掛けさせて頂いております。
 もう是は皆さんご承知と思うですけれども、私は要らん夜中には電気をずうっと、あっちこっちを消して回ります。点け忘れておりますから。消し忘れております。もうねそら金銭にすればね。それはしかしそう言う私は、この今日のおごりがましいと云う事は、そういう精神を説かれたんだとおもうですね。是はま椛目の内田さんといや、美しいと云う事に置いては、もう本当に素晴らしい美しい方です。金銭欲がない物欲がない。もう本当に美しいですね。
 けれども私が今日、お夢に頂いておる様な所、そげん所にまで明かりを点けんでん。そげん所にまで努めんでんと言う様な所に、それをせにゃ気が済まん様な所がある様ですね。そげん心使わんでんよかがと言う様な所がある。かと言うてですほんなら、川一重、こちらの広島さんの所に、もう言うならば、もう内田さん達が夜なべしよりなさる間には、もう朝起きておられる姿である。だからこういう生き方で行きゃ、もう絶対素晴らしいです。所がほんなら、こちらには信心がない。
 それだけの事を言うなら、なさりよるけれども、なら特別大繁盛のおかげを頂いておられるとも、まぁ思われません。他所の事だから言われませんけれどもね。ですから言うならば、信心を頂いておるもんが、例えば内田さんが広島さん所の真似をなさったら、素晴らしかろうと云う事です。是は内田さんの欠点とか、広島さんの長所とかと云う事じゃない。ただお夢の中に現れて来ておる、一つの御理解ですから。ほんなら自分ところの上に置いてもいいのです。
 そんなら広島さん所がどうこうと云う事じゃないですけれどもです ここでは信心が無かならばです。どれだけそんならば、朝早起きをしても努力をしてです。成程貯まったかと思うけれども、幸せには繋がってはいないです。問題は幸福に繋がると云う事ですからね。いうなら繁盛のおかげもです。幸福に繋がる。どんな良い着物を着ても、どんなに良い食べ物を食べても、それが幸福に繋がらなければ駄目なんです。
 だから内田さんの生き方が、広島さんの所の牛乳屋さんの所の生き方に、置き換えられたら、信心があるのですから素晴らしい、広がりに広がって行く繁盛のおかげが頂かれて、幸福に愈々繋がって行くと、私は思いました。ははぁその事じゃったばいなと、今朝のお夢をこの八十四節から頂きました。細うても、次第に踏み広げて通ると云う事。是を私は努力という風に今日は聞いて頂いたね。
 昨日も二十数年前にお参りをして来た方で、そん時に初めて親先生から頂いた御理解が、現在まで私の支えになっておると云う人がお参りをして来た。商売にも大変繁盛のおかげを頂いておる。田舎町に住んでおるけれどもあの正札販売を始めた。大変な努力が要った今日ではもうその田舎の私の様な町でも、それで通って現在繁盛が出来て今度支店まで作る様なおかげを頂いたと言うて、もう二十何年ぶり参ってきましただから繁盛しよると云う事が、幸福と云う事にはしかし繋がっていないという感じなんです。
 だから信心の場合は何処までも、そういう精進努力をする、そして繁盛のおかげを頂く、健康のおかげを頂く、家庭円満のおかげを頂いてです。それが幸福という事に繋がって来ると言うのです、信心させて頂くと云う事は繋がらなければ駄目です。だから普通でいう、信心のない人が努力精進して、例えばほんなら繁盛してもです。繁盛と言う事だけはおかげでしょうけれども。幸福に繋がっていないならば、あぁ昔の貧乏しとった時分が良かったち言う様な事にならんとも限らんのですから。
 ここん所は私は勿論この八十四節の、次第に踏み広げて行くと言う事は、信心しながら信心の努力、お仕事の上の努力をすると云う事だとこう思うです。それをね努力癖と云う物を身に着けておかにゃいけんですね。道に草を生やす様な事をすな。折角踏み広げたその道にです、言うならば道を汚すような、金光様の信心しよって、あげなこつで良いかと言われる様な事のない様な生き方をさせて頂くと云う事はです。私は今日は此処ん所を、マンネリになると云う事。当たり前の様になって来ると云う事。
 例えば人から後ろ指を指される様な事をしとっても、それが平気になって来ると云う事。まぁ例えて申しますとね。それと是とはまた別ですけれどもです。ここ数日間教旗が上がりっぱなしなんですよね。皆さんが朝参りをして来る時に、朝露に濡れた言うなら教旗がはたはたしておる。こら見苦しいですね。もうこげな私はとぼけた感じはないと思うですね。夜夜中に旗が揚がっとるなんて。もうそれこそ朝ね。言うならば掲揚式の一つもさせて貰う様な気持ちでですね。
 教旗を拝む様な気持ちは生まれます朝。けれどもそれが晩に下げるのを忘れとってから、もうしかも何日間も私はここへ毎朝出てから拝みますから、それが目に見えるのです。ははぁ是は本当に怠慢になっておるなぁ、もう慣れてしまってマンネリになっておるなぁ。是だけ修行生がおってからどうした事だろうかと思いますけれども。まぁこちらの信心のまぁ不行き届きだと思うてね。あの旗を見ながらお詫びして頂く訳です。ね。朝暗い内来る時に旗が上がっとるのは、気分良いものじゃないでしょうが。
 此れ等は、もう道に草を生やしておる様なもんです。はぁ心掛けにゃいかん、合楽教会、合楽教会と言うてです。まぁそれこそ自分よりよかごつなかごと思うとるけれども、こう言うミスがありよるんだと云う事です。心がざんしんじゃない証拠ですね。心が生き生きとしてない証拠です。是はもう何をしてもそうです。お商売させて頂いてもです。たとえば昨日、私その方の話を二十何年の話を聞かせて頂いたが、もう何時も商売のことを頭においてですね。
 何時も今度はどういう売出しをしようかと云う事を思い続けておると言われるです。ですから何時も店が斬新なんです。私は是は、ほんならお百姓さんでもそうですね。例えばほんなら久富繁雄さんがとこに、まぁあそこは牛蒡の産地ですから、牛蒡ばっかり作っときゃ良いと云う事は決してないです。より良い栽培法より新しい、それこそ皆んなに受けるお野菜は無い物かと、何時も勉強したり、考え続ける様でなからなければ、私は本当の生き生きとした百姓じゃないと思うね。
 もう米作りはどげな馬鹿でん出来るきんち言うごたる風な考え方では、何時までたっても本当に沢山のより収入が増えると言った様な事にはなって来ないと思うね。努力が無かったら何でも駄目です。言うなら所謂何と言うですか生き生きとした日に日に更と云う物が生まれて来ないです。ほんなら朝参りをしとっても更なものが生まれて来ないですなれて来ると。何時もだから朝参りをさせ貰うならば、朝参りのさせて頂き方というその自分の姿勢と云う物をね、何時も検討しなけりゃいけないと思うです。
 はぁ今日は自分が参りよるが、どう云う事を、大体お礼を今日は申し上げる。はぁほんに昨日は、あれもおかげじゃった、是もおかげであったと云う事を、先ず私の心に描いておかなきゃいけないです。そして今日のお願いのポイントは、何処においてお願いをするかと言った様なものを、ただ参りよりゃよかと言った様な事では、必ずマンネリになります。工夫が要るです。
 道に草を生やす様な事をすなと云う事は、私はそう云う事だと思うんです。今日は皆さん、合楽の皆さんがです、本当に細うてもそれが長う続くという努力。そしておごりがましい心と言うものをです、自分の言うなら尺度と云う物を作っておって、これ以上の事は出来ない。例えば一万円の給料を取りよって、一万一千円の生活をする様な事は、絶対しないと云う様な根、物が身に付いて来なければいけない。そして十万の収入がある様になって五万円の言うなら、生活をする様なこつはもう楽でしょう。
 それは決して贅沢じゃないね。最高の物を食べて最高な物が身に着けられて、しかも私が今日申します様にですね。今日のお夢の中に私が頂いております様に、それこそ朝の三時かもあろうかと言う様な、朝早く起きてです精進努力を、例えばしておってもです。おかげで仕事は伸びた、おかげで金は儲かったけれども。ほんなら幸福に繋がらなかったらつまりませんからね。そこを私は内田さんとその信心のない方の家庭とを、対照的にね。そのお夢の事を、皆さんもう一遍思うて見て下さい。
 決して内田さん広島さんと言う事じゃありません。銘々の上にもそれを頂いて、本当に要らん所の百燭光を点けてる様な事は無いだろうか。是はもう一事が万事そうなんですね。朝せんならんとば、晩しよる様な事はないだろうか。昼間寝てから晩ばっかりは、何時まっでん、深夜劇場どん見とると言った様な事はないだろうか。それでね繁盛に繁盛のおかげを頂いて行こうと云う思いは、それは余りもの思いですね。
 本当に言わば踏み広げて通る繁盛、所謂それこそ八の字型にです、広がりに広がって行くというおかげを頂きたい為には、先ずおごりがましい心をせなければならない。同時にね。努力をしなければならない。そして道に草を生やす様な事、言うなら全ての事が、マンネリになってはならない。仕事でも成程同じ様な事を毎日繰り返すのですから、もうそら慣れて来ますから慣れる事は有難いけれど、マンネリになってはつまりません。そら例えば御結界奉仕なんか来させて頂く。
 同じ事ですもうこんな単調な事はありません座っておるだけですから。ですからもし本当にマンネリになったら絶対眠気が付くです。所が心が更であり生き生きとしておればです。それがもう毎日新しい事としてそれこそ、三度三度頂かせて貰うほんなら白い米の飯がです。やっぱり食べたい美味しい様にですね。毎日ここへ座らせて頂いておるこの事が有難いね。同じ例えばお百姓ならお百姓させて頂くのがです、同じ事が繰り返されておるのだけれどもですね。やっぱり日に日に矢張り伸びておると云う事ね。
 縋っておると云う事。そこが嬉しいのである楽しいのであると言った様な、生き方にならなければいけません。今日私はある方の事をお願いさせて頂いておりましたら、あの高橋の明神様と云う事を頂きました。教祖の神様のご時代に、あの高橋トミエと言う、大変お徳の高い先生がおられました。現在でもそのお広前がまだ残っておりますが。その方の事を皆が、あの明神様と申しあげました。高橋の明神様、高橋の明神様とはどう云う事だろうかと、私は思うて明神と云う事をね。
 こう書いてみて、あれは日に月にと書いてありますよね。明という字はね。それは、どう云う事かと言うと、是は私が何時も申しております様にね。天地日月の心になる事肝要だと。信心させて頂くには、もう天地日月の心になる事肝要だと云う事です。日月の心は、皆さんが何時も頂かれる通りであります。実意丁寧神信心ね。是を身に付けて行く以外にありません。
 是を本気で日月の心を、自分の身に付けて行く様な生き方になればです。今日の御理解に、ぴったりする事になります。だから今日の御理解を、一言にして言えばですね。日月の心を、愈々身に着けて行くと言う事にもなります。それを今日は、ただ御理解のお言葉を、一つ一つこう今日は、解釈させて頂いて、まぁ聞いて頂いた訳ですけれどもね。愈々末広がりのおかげを頂く事の為に、今日の所を、お互い本気で身に着けさせて頂くおかげを頂きたいと思います。
   どうぞ。